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映画『ウィーアーリトルゾンビーズ』をちゃんと語るから、ちゃんと見てほしい

良い映画を見ました。

『ウィーアーリトルゾンビーズ』以下ゾンビーズって呼びます。

 

思春期のみんな、無料公開ちゃんと見た?

 

確実に番人受けはしないようなクソサブカル的ビジュアルと、そういった化けの皮を被った悲しいテーマ。僕は好きです。死ぬほどパカパカしてて目が竹下通りみたいになったけど、頑張って考えながら見た甲斐があった。

 

ここでは、中島セナと、本作のテーマについて語りたい。

一度書き上げたものが消滅して再度ブラッシュアップしたので、最後まで読んでください

 

中島セナに骨抜きにされてしまった

中島セナ

サブカル界隈ではほら、popeyeの表紙になってたから知ってる人いるでしょう。

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それこそちょうど表紙モデルやったときくらいから僕もなんとなく頭の中の美少女フォルダに保存しっぱなしだった中島セナ。半ば無理やり見てしまった本作のトレーラーに出演していて、その表情にやられてしまった。

 

そして、彼女が演じたイクコという少女がゾンビーズを語る上でめちゃくちゃ重要なんじゃないか?と気付いてしまったわけです。それを中島セナの魅力と絡めて書きます。

 

まず、中島セナの存在感は本当に凄かった。

この映画では、両親を亡くした子供達がどう成長し、感情を取り戻していくかを追うのが本筋。いわば重要なカタルシスなんだけど、中島セナ・イクコはそこがすこし異色だったし、どこか核心をつくような存在だった。

 

特殊な存在というのは、紅一点であること、身体的な欠損があること、など。明らかに中島セナから他の3人とは違うものを感じたのは僕だけではないはず。その違和感はこのストーリーのラストになって明かされる。

 

バンド解散後、富士方面へ逃避行を続ける4人。ラスト間近になって、男子3人が遠くにいたイクコを母親と重ねるシーンがありました。ふつうに超重要なシーン。

それ自体はコメディカルに終わってしまったのだけど、ヒカリが涙を流したりしてて、ようやく感情を取り戻すみたいなゴールにたどり着いた感があった。つまりやっぱり求めていたのは愛情で、男子3人は幻覚とはいえイクコにその愛情を重ねることで擬似的に母性を体感した。

 

よかったな〜  

というのもつかの間。「じゃあイクコにとってのゴールは?」という疑問が浮かぶ。

最後の最後まで、イクコが両親に対してどんな形でも愛情を感じるようなシーンはなかった。でもその代わり、彼女が求めていたものはしっかりと描写されていたのだ。

 

エンドロール直前、4人が話しながらそれぞれに散っていくシーン。

あそこでイクコがフフって笑ったのを覚えていますか。4人とも感情を失ったとはいえ、ふつうにコミュニケーションをとったり、13歳らしくはしゃいだりはしていた。それでも絶対に「笑う」という行為はなかった。嘲笑とは別にね。

 

そこで唐突に、そして観客にもわかるように聞こえたイクコの笑い声。

ここに全てが詰まっていたと思う。

 

イクコの求めていたものは、仲間だったのかあ、と。

いやめちゃくちゃダサく聞こえるけど、そういうことだと僕は感じた。

すこし振り返ってみる。

 

そもそも、バンドをやろうと発案し、必要なものを揃えるためあれこれ画策したのもイクコが中心で、その直前、ゴミ捨て場でバスケをしていたイクコがぼそっと呟いた「汗かいちゃった」というセリフ。

特にそれ自体はなにも感じなかった。けど、ライブのとあるシーンでハッとさせられる。

 

たしか初ライブのときだったと思う。

ギンギラギンに輝いて目紛しくカット代わりする中で一瞬イクコが映ったとき、彼女の頰に大量の汗が滴っていたのが見えたんです。

その時おや?と思いました。常に無表情の氷のような少女が、ライブで熱奏して汗を流している。

彼女は全力だったのだ。

 

ちょっとした違和感と感動を覚えつつ、バンドは解散してしまう。

楽器はすべて燃やされ、喪失感が感じ取れるヒカリと気にも留めない様子でじゃれる男子2人。

そんな中、イクコは燃える楽器の前で踊ってるんだよ。勘付くわけです。

イクコにとって大事なのは、「4人でいること」だったのでは。

 

男子3人がイクコにたいして母性・もしくは女性性を見ていたのであれば、それは個人対個人。

一方イクコは男子たちに父性を求めることはなく、まして母性を求めようにも周りに同性がいない。

イクコが男子3人に求めていたのは、友情のようなものだった と推察する訳です。

 

そういう仮説を真説へと導く、ラストシーンのイクコの微笑。

すこし話は逸れるけれど、この映画では4人それぞれにイメージカラーが割り振られていた。

当然、色にこだわるというのはこの映画の本質ともがっつり関係していて、視覚的にキャラクターを語る みたいな意味があったんだと思う。で、イクコの色は白。何にも染まらない色。

・・・

イクコの存在と色は密接に関係している。彼女が男子3人の求める象徴的な存在だったのも、第三者的に状況を俯瞰して写真を撮ったり、つまりテーマカラーが白なのはそういうことでしょう。真っ白もしくは灰色だった彼女も、最終的には「4人仲間であること」が喜びだったのだと思うし、鮮やかな仲間の色に染まったんだ。

 

この映画は「家族愛」が語られがちかもしれないけど、こういう見方もあると思う。

 

中島セナだけでこんなに語ってしまった。

もう彼女の虜です。骨抜き。首ったけ。画面に映るだけでキュッと引き締まる存在感、ファンになっちゃった。

とにかくあと3万文字くらいはいけそうだけど、この辺で。

 

というかふつうに暗くなかった?

作品全体の話に移ります。

この映画、公開前から圧倒的な視覚効果がウリで、実際見ていてもすこしお腹いっぱいになるくらいポップだった。世が世ならパカパカ過剰で苦情くるで。

 

それでも、僕はどこまでも暗くて悲しいストーリーだなあって感じた。

そもそもPG12の時点で怪しいし、両親を亡くした子供たちの青春譚…が暗くないわけないし。

それを圧倒させるポップみを楽しみにしていたのだけど、蓋を開けてみたら黒を隠しきれていなかったわ。カラフルな演出でいくら画面を覆おうとも、そもそものネガティブが端の方でにじみ出ていて、この映画で輝いて見えたのは中心のみ。

 

だって、両親を亡くした子供を商売道具にする大人、それって描写する必要ないでしょ。意図的に悪意を描こうとしない限り。しかも舞台裏、生々しくカメラに納めたライブ感まで演出した上で池松壮亮に語らせちゃってさ。「これが大人の思惑」感をあからさまに。ひどいよ。

これ、ポップの殻を被ればどんなネガティブも隠せる っていう魂胆だとしたら、まじでサイコパスだと思う。本質はクソ真っ黒なのにそれを隠そうとしているところが。さらに、隠しきれずに見え隠れするドス黒さを自覚していそうなところも。別に褒めてないです。批判でもないけど。

「僕は愛されていたのかなあ」

「運転手を殺してやりたいですね」

なんて13歳の主人公ドアップにして言わせるなよ。

子供もそうだし、子持ちのパパママに見せるもんじゃないでしょ。

・・・

でも、ド甘のタピオカミルクティかと思いきや、1粒2粒見てみたらカエルの卵だった…みたいな不快感と生々しさはこの映画の奥深さに一役買ってると思う。

 

だって目先の演出を目的に見てたら絶対気づかなかった。

僕は期待していたから頑張って考えながら見た。前半のセリフひとつひとつも後半でしっかり回収されたりしたし、やっぱり作品としての深さも評価すべきなんだと思う。

奇抜で斬新な視覚効果は、両親を亡くした4人の物語を「ウィーアーリトルゾンビーズ」という映画にさせた。一方、物語そのものが持つ負の側面も決して殺さず、眼前で煌めく派手な演出を支える傍らに黒みを見せていたのであれば、長久監督すげえなあって思うし、同時にサイコパスだなあとも思う。

奇抜だけど奥深い 良い映画やったで。

これに尽きるな。どうしても斬新性は目を引いてしまうけど、それ以外の演出もちゃんとしていたと思う。ま、それなりに「?」って感じるところもあったけど。

 

最後にひとつ語るとすると、MVのシーンは本当によかった。

まさか4人の暗い前日譚をまじまじと見せられた後のシーンだとは思わなかった。

負のテーマ・負の経緯から生み出される、負の音楽。でもそれはヒカリのアイデンティティでもあるゲームサウンドから始まり、親との繋がりを奪われてしまった4人が繋がっていた。

そんなの涙無しには見られなかったよ…。本当にいいシーンだった。思い出すだけでも胸が熱くなる。

 

・・・

とにかくあと3回くらいは見たいな。

記憶も曖昧だしちゃんと指摘できないけど、細かいセリフの中にちょっとした伏線みたいなのがかなり散りばめられていたはずなので。

 

『ウィーアーリトルゾンビーズ

ちゃんと中身を考えられる映画です。いい映画でした。