2023年1月17日のカネコアヤノ 日本武道館 単独演奏会2023 について:
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弾き語り公演というもの自体が初めてだった。終わってからしばらく、身じろぎ一つできなかった。隣にいた友人の問いかけに答えることができなかった。放心状態のまま、整理退場のアナウンスをぼんやり聞きながら、どこかへ散り散りになった魂が回復していくのをただ待った。武道館を退場してからもしばらく、言葉を発すればそれを皮切りに栓を抜かれて溜まったものが放出されてしまうのが怖くて、何も言えなかった。
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カネコアヤノが歌っているとき、身体が硬直した。足を組んでいたことを忘れた。いつの間にか固めていた拳が解けなかった。目線はずっとカネコアヤノ一点に定まっていた。カネコアヤノが次の曲の準備のためチューニングしたり水を飲んだりしたが、それと同時に硬直が解けて、硬い椅子に座りっぱなしで腰とお尻が痛いことに気付いた。そしてまた次の曲のイントロが弾かれると、キュッと身体が緊縛された。
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身体が緊縛されて動かない一方で、魂が内側から引っ張られるような感覚を味わった。魂は心臓の近くにあると仮定する。心臓のそばにある魂が、カネコアヤノに呼応して身体から出たがっているようだった。魂は器のような形状なんだろうか。カネコアヤノから注がれる膨大な量の波がその器を満たしてくるような気がした。満たされて溢れたらそれが涙になって流れているんだなと思う。肉体の機能を捨てて、魂の躍動に心を全て預けた。感極まると息を吐くことすら忘れる。山場を超えた途端、水面から顔を出すように息を吐いて深く吸った。息をするのと感涙に咽ぶのは、身体機能としてどこかで対応し合っているのかもしれない。カネコアヤノが声を荒げる瞬間や、好きな曲の好きな言葉を聞けた瞬間にたちまち涙が流れるという仕組みがどうなっているのか、よく分からない。終演後のいま現在も分からないし、公演中はなおさら分からなかった。
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カネコアヤノも昂ぶりからか歌声が荒くなる節があった。本当はもっと叫びたいんだろうか。もっと激しい何かが表出しそうになるのを、観客の前で保たなければいけない節度や体裁が抑えていただけかもしれない。「音」が定義するところの空気の振動、それとは別の物質や周波、見えなくて聞こえない何かが燃え盛っていて、その熱が武道館を満たしていた。
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帰り道、音楽について考えた。リズムを自分の身体に染み込ませて同一化するという行為は、他者と自分の波長を合わせるチューニングと一緒で、ヒトをヒトたらしめるコミュニケーションの手法の一つなのだと思った。それに言葉が添えられて詞曲となればコミュニケーションはより明確になる。自分の持つ感性の答え合わせ、もしくは答えを詞に探し求めるのと同じ。承認欲求を満たすのと同じ。究極、自分の存在を肯定されたいからリズムと歌詞にその証左を探しているのかもしれない。それはもう神に祈ったり、実態のない概念を信奉する宗教のようなものに近い。ヒトはフィクションの発明から進化した、とサピエンス全史では語られているらしい。中田敦彦のYoutubeで見た。音楽を聴くというのは、そういうことなのかもしれない。
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今回の単独演奏会にはMCがなかった。カネコアヤノは全曲終了後にお礼を述べただけで、それ以外の彼女の言葉はすべて詞の中だった。自分も言葉をもっと貪欲に吸収したい。得た語彙を惜しむことなく的確に表現したい。好きだと感じる全てのものの、その全てを感じたい。
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まだまだ生きていたいです。😄
おわり。