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映画のあれこれ「怪物」「ザ・ホエール」「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」

「怪物」、めっちゃよかった・・

今年見た映画、すでに「ザ・ホエール」という人生史上ぶっちぎりの最高映画に出会えていて大変嬉しいのだけど、さらに「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい(ぬいしゃべ)」も超良くて、「怪物」もそれに並ぶくらいの傑作だった。どれも劇場では声を抑えるのに必死なくらい涙が止まらずという状態で、涙が出るかどうかはたかが個人の指標なので重要ではないけど、この3作にはそれほどに感情を大きく揺さぶられた。

何が良いって、3作品ともにある種のテーマというか核をなすものというか、根底の部分で自分の感情が抑えきれなくなるような成分で構成されていたこと。それは「ふつうと違うこと」です。物語を動かす動機にはたくさんの感情がある。サスペンスやホラーでは恐怖心とか復讐心だし、ロマンスは恋心。サクセスストーリーには野心や向上心、とか。この3作品を織り成す心的モチベーションにおいては、葛藤?違和感?で、そういう感情からくるとても強い衝動が物語を大きく動かしていき、そのパワーが自分のところに最大限で届いた。その衝動って、なんなんだろう。

どの作品もきっかけは自分がノーマルではないという気づきからくるもので、更にこの3作品にはセクシャリティという共通点がある。「ホエール」では主人公は妻子を捨てて同性との駆け落ちを選んでしまったことから物語が始まるし、さらにその娘も自分のアイデンティティに靄がかかり、見えない。「ぬいしゃべ」ではそもそも性愛を自分ごとに落とし込めないからこその葛藤に若者は悩む。そして「怪物」では「おとなたちがしきりに口にする男らしさ」と自分の本心とのズレを、小学生の目線から特に定義しないことでやわらかく伝える。

そういった気づきがそれぞれの衝動、ひいては具体的な行為につながるというのは、つまりこういうこと:

「ホエール」では、主人公チャーリーは自己嫌悪から過食という自傷行為に。娘のエリーは対照的に、実質的な危害は加えないもののその言動にいわば他傷の意図がみられる。自分を愛せない父チャーリーと他人を受容できない娘エリーの逆方向を向いた衝動が真正面からぶつかったとき、チャーリーの元来の包容力にエリーが包み込まれるような形で波が静まっていき、物語は終わる。自分は何者か、という違和感や罪悪感がトゲのようなものになり、自分を・他人を傷つけてしまった人たち。その傷が寛解するプロセスは、荒療治ながらもひたすらに愛に溢れる。

一方「ぬいしゃべ」では画面に映る上での激しさはなかった。主人公のナナくんはアセクシャルで、恋愛感情が何か、よくわかっていない。それでも周りの男子はあたかも性愛をカジュアルに求めることが普通のように話すし、道ゆく見知らぬ女性は自分のことを「危害を加えるかもしれないオトコ」として警戒するそぶりを見せる。自分はそんなことみじんも思っていないのに、そもそも男とか女とかわからないのに、という「普通でないこと」が心身を蝕み、ナナくんは幽霊になりたいという理由で髪の毛を金髪に染め、家に閉じこもってしまう。これが本作を大きく動かした強くも静かな衝動のあり方だ。一方で麦戸ちゃんが感じてしまったもうひとつの負の感情というのも、彼女を部屋に閉じ込めるのには十分な理由となる。その二つの衝動的な(かつ、静的な)心の沈殿というものは、ラストシーンで二人の対話によってほぐされ、お互いに再び水面に顔を出すように。自分は何者かというのを、内省と対話で問う、素晴らしい映画だ。

では、「怪物」はどうだったか。自分がどういう人間かを理解していた依里は、湊と出会う前から父親が求める男性像と自分のこころの葛藤と戦っていたはず。それは依里にとっては抑制という行為に現れ、うまく流してやっていけるだろうという飄々とした境地へ。

そして依里に出会った湊。彼は依里と親交を深めるまで、自分が何者かを自問することすらなかっただろう。母親とも良好な関係を築いている中で、日常的に「(男性として)家庭を持って欲しい」というべき論を諭される。それは遠い将来の話だったからなのか、自分の心の状態とマッチングしないからなのか、湊はまだわからなかった。ただただ想像しがたいということだけはわかっていたけど、といった状態のはずだ。アイデンティティを求めはじめる以前の段階にいた湊にとっては、短い人生の中で先行してなんとなく知っていた「男は女を好きになる」「女っぽい男ってヘン」といった価値観が、依里への好意を自覚することで一気に崩れ去ったのだ。最初はただの結託や庇護だったはずだが、急進的に依里との関係が「いけないこと」に変貌してしまった。でも目の前には、自分と"ふつう"のズレを知覚して戦っている依里がいた。湊は彼が好きだ。純な好意は二人を突き動かし、「誰にでも手に入るもの」を、何者にもなれないはずだった二人が手にした。校長先生の「誰かにしか手に入らないものは幸せとはいわない」というセリフを最後にすべてひっくり返すような、反語的な結末が本当に良かったですよね。

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といった具合に、この3作はセクシャリティのズレがもたらす衝動とその行為、そして結末がどれも美しくて、それはそれは感動したのでした。

こと「怪物」においてはその部分が意外とフォーカスされていないなと思った。パンフレットを読んでもLGBTQという直接的な言葉で登場したのも一節くらい?少年らのたしかな絆に軽々しく名称をつける意味がないというのはそうなんだけど、実は見る人によっては「またそういう話か」と辟易しちゃう人もいたんじゃないかなあと思ったりもした。巨匠是枝監督ですら、流行のセクシャルマイノリティを題材にした映画を撮り、それがカンヌで脚本賞まで受賞した。杞憂に終わった(たぶん)から全く気にしないのだけど、軟派なテーマに着地した本作にちょっとがっかりしてしまった人もいるんじゃないかな。

でも性的マイノリティが要素に含まれているかどうかって、本当に些細なことですよ。これまで見えなかったものが見えるようになり、それが映画に表出しているだけ。ひと昔前なら違う要素を用いて表現していた愛というテーマに、現代の要素が加わっただけ。もし心のどこかでそれに引っかかるものがあるとするならば、それは黒人奴隷や人種差別、キリスト教的な愛情といったものには真に寄り添えない、われわれ日本人マジョリティの性なんでしょうがないとおもいますけどね。だからこそこういう映画を通してぼくらは想像を掻き立て、最大限自分ごとに落とし込むことで理解や寄り添いが可能になるってぇことじゃねえの。たったそれだけのことさね・・。

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作中の当事者たちが抱いているフラストレーションは、ぼくらマジョリティがもたらしているのは疑いようのない事実。悪意があろうがなかろうが、それは間違いない。我々としては、「視えない」を出発点に、「視えるものの正体を知ろうとしない」から、「知っていながらも受け入れることができない」、そして「知っているものをさも正解かのように押し付ける」という4つのプロセスを踏んでしまう。そこに悪意が含まれるケースは論考する価値すらないけれど、知らず知らずにどれかに陥ってしまうパターンは誰にでもある。「怪物」の正体は何なのか前のめりに犯人探しに興じた人たちは、もしかして「怪物」なんていうものは存在しないんじゃ?と思ったことでしょう。僕もそうでしたし。

映画の中でそれを防いでくれたのは「対話」でしたね。いくら愛情があっても湊の母親は無意識的に男性観を植え付けてしまった。「怪物」では湊はほぼ自分自身で答えに到達した感じがあるけれど、「ホエール」「ぬいしゃべ」では対話の重要性がいかなるものか、しかと目に焼き付いている。話してみること、そして、知らないことを知ろうとすること。大事です、ほんとうに。ああ、そういえば「エブエブ」でもそうだったな...

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自分はミクロな人たちのミクロな悩みが衝突して融解し、最終どでかい愛に昇華するような映画が好きです。特にそれがセクシャリティに関わるテーマだと、より卑近に感じられる。自分の属性はどれもマジョリティ側だけど、生き方や考え方はたぶんマイノリティ側だとも思う。属性としてマイノリティの個性を持つ恋人がいたという、それを加速させた経験もある。正直、この3作に嗚咽して涙するほど感情が揺さぶられる感覚、その強さが凄まじすぎてちょっと不安もあった。なぜなら自分は本来マジョリティ側に属するから。自身が当事者になったとき、また当事者と深い関係を築いたとき、どうなっちゃうんだろうなあ。

こういった映画を通して感じられる愛情を獲得することが自分の人生の目標みたいなところはあるけど、現実世界でそうそう上手くいかず、心が打ちのめされてしまう将来の方が現実味を帯びていて、すこし怖い。