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『まじめな会社員』を読んだ呪われし恋愛弱者サブカルクソ一般男性の呻き

 

 

『まじめな会社員』という漫画を一気読みしました。ツイッターでバズってたのか紹介ツイートを見かけたのか、ぼんやり読みたいなと思っていたところ全4巻でこないだ完結したのでいい機会かな、と。

A子さんの恋人みたいな感じなのかなって思ってたけど、実態はもっと救いようのない物語でした。A子さんの物語にも登場しそうではある、でも絶対に主人公にはなれず、クリエイティブにもなりきれない一般人にスポットが当たった漫画。

 

女性読者はもっと共感でいっぱいなのでしょうか。男性ぼくも相当お腹痛くなりながら読んだので、感想を残しておこう〜。

「まじめな会社員」あみ子

柴田聡子とクリエイティブと鑑賞するだけの人間

まずは「クリエイティブ」であること、について。

 

「柴田聡子」というワードが強烈に記憶に残っている第1巻。

「柴田聡子」といえば、ちゃんと音楽をやってる人、歌詞をしっかり練る人、感性やセンスが優れている人、みたいな感じ。それを好き好んで聞いている人たちからも「自分、柴田聡子の”良さ”、わかりますけど」という香りがします。

 

自分はそれを他人に悟られるのが絶対にイヤで、あまり公言することはないんです。そして主人公あみ子もそういうタイプなんですよ。だって鑑賞するばかりで何も産み出さない人間が本当のクリエイティブを語るなんて、痛々しいじゃないですか。

 

あみ子が「いかにも」な女に見られたくないという気持ちで参加した読書会。そこで「本物のクリエイター」に共感を得られる悦、よくわかる。自分はこんなに深くまで考察しているよ、どう?とひけらかすのも、「知らんけど」のスタンスで逃げ道を用意するのも、わかる。そして、その共感を得られたホンモノの人と、ただ感想を述べているだけの自分は同じ土俵に立てているんじゃなかろうか?と錯覚する気持ちも、よーくわかる。

 

でもわれわれ鑑賞するのみの人間がいくら柴田聡子を解剖してその真理を突いたところで、結局すごいのは柴田聡子であり、想ちゃんや今村さんやクリエイターであり、ただそれを見つけて深いレベルで好きでいる自分は、何もすごくないのだ。鑑賞してるだけだから。

 

最終的にはライターとして大成できなくとも東京で燻ることを決意したあみ子。一般的な幸せも、クリエイティブに突き抜けることも、どちらも叶わなかった。

だけど僕らサブカル人間からすると、やはり一生クリエイティブでいたいのだ。おめーらみたいな才能もなければ諦めもつかないような人間は、創作したい安定したい、という二者択一の呪いにずっと縛られて生きていくしかねーんだよ、というラスト。お腹が痛くなりました。サブカル人間諸君、ちゃんと自分の物語だって気づけましたか?

誰かのいつメンになる!

そんな、ずっと呪われて生きていくしかないんですか!?

 

そうです。僕らみたいな、フィクションに縋るしかない人々はそれしかないんです。

2巻終盤であみ子が参加した読書会。そこでライターに出会い、置いて行かれないよう会話をつなげなければ・・と思って浅い言葉で本職の人たちに煙たがられてしまう。

そうなんです、結局カルチャーを長年鑑賞しかしてこなかった人にとって、急にクリエイターと同じレベルで関係を築いてみなさい、というのは無理なんです。無理。だってまじめですもの。安定したいという呪いは解けないんです。綾ちゃんみたいなフットワークの軽さも、今村さんや想ちゃんみたいな才能と気楽さもない。だけどクリエイティブの最も近くに居たいなんて、傲慢ですよ。まじめは罪。

 

とはいえこの世にはそんなワナビーが大多数なのだけど、そういう人たちは同レベルの普通の人と連み、恋愛をし、誰かのいつメンになる。

あみ子みたいな、僕らみたいな否定まみれの恋愛弱者だけが孤立するのだ。

 

コロナ禍にも関わらず綾ちゃんが不破さんと付き合いましたね。あみ子はどうですか。コロナになっても同じ日常。もともと充実していた人も、していなかった人も、結局コロナ以降も生活の幸せ度が変わっていなかった。みんな一緒に生活レベルを落として安心していたのに実際はそんなこと全くなくて、急に自分の生活がずっと惨めだったことに気づきませんか?お腹痛くなりますよね。

 

綾ちゃんとオンライン飲みしてるときの「あみ子ちゃんは最近どうなの?」「特にはまあ・・コロナだし?」という会話。無理すぎる。コロナを免罪符にすれば人間関係の凍結を自虐してもいいよね、という自己否定。

綾ちゃんみたいな天性の幸せ人間は、「自虐」という行為が理解できないんです。僕ら恋愛弱者は自虐で場を盛り上げてさっさとゴミみたいな恋愛トークから脱したいんです。だけど愛されることが普通となっている人間は自分を貶めることはせず、心から「そんなことないよ、そんなこと言っちゃダメだよ」と言う。

それでいて幸せピーポーの幸せマインドを説かれたときにはこっちも理解できないんです。どちらの場合も傷つくのは自分です。自虐を窘められるのも、自分には手が届かない境地に達している人のハッピー説法も、羨みが根底にあるから歪んだ捉え方しかできないのだ。

 

「こんな幻想知らない方が楽だった」と感じるあみ子・・わかる。でも捨てきれないですよね。お腹痛いね〜、ずっとこれからも一人で誰かのいつメン同士に「おめでとう」を言いつづけましょうね〜〜。

日々の瑣末な往復と受け身スタンス

そうしてあみ子は気づくんです。

「家と会社を往復して瑣末な記事を量産している間、みんなは人間の営みをやっている 私のあずかり知らない世界で」と。

人間の営みを私のあずかり知らない世界で・・というフレーズ。いいですね。僕らが家で映画を見て漫画を読んで、移動中に何聴こうかなとディグっている間、世の中は些細な社会活動を積み重ねているんですよ。人と会う、話す、メッセージを重ねる・・そういうのを重荷に感じない人から営み方を身につけていって、いつの間にか幸せになっていく。

 

じゃあみんなが幸せを営んでいる間、ひたすらフィクションに逃避していた我らはどうすれば?「まじめな会社員」作中で唯一(?)勇気付けられる(??)シーンに、その答えはある。

 

綾ちゃんからライターの仕事を打診され、結局「やっぱ好きだから、やってみたいから」が原動力でいいんじゃん、と憧れの仕事が実現したことに思いを巡らす。

そう、答えの一つは「自分が大事にしてきたモノはずっと好きでいなさいよ」だ。好きの熱量のおかげで、単独で楽しむ趣味以上へそれが昇華することもあるんだ、という可能性を見せてくれた。

そして物語ラストまでズルズルと引きずられるもう一つの"とある答え"こそ、この作品とあみ子という人間、ひいては我々当事者のテーマそのものだ。

生き地獄を征く

よく考えてみてほしい。作中での綾ちゃんのような「呪われていない人間」の慈しみの結果であみ子はおこぼれをもらっただけなんじゃないの?

4巻冒頭、請け負った記事のテーマのひとつに「ルッキズムからの脱却」があり、悶々とするあみ子。それもそのはず、今回の仕事は綾ちゃんの慈悲のおかげだ。あみ子が自分で状況を打破したわけではない。今村さんとキスしておけばよかった、なぜなら当時の自分は完全に受け身で無責任が許されるから、と後悔するあみ子、結局なにも変わっていないのだった。

ルッキズムの打破=根源的な自信の獲得、ということなのだけど、あみ子は生来的な土壌が肥沃でないから無理だよな、と。それは誰の責任?

あみ子は親と出身のせいにしている。親が就職に有利な進学を勧めた結果私はクリエイティブになれなかった、田舎特有の結婚観や男性優位主義が染み込んでいるから東京という野原に放たれても自発的に動けなくなった、っていう具合に。

 

それに気づき、もう99%諦めるしかないと自覚したのは30代も半ば。文学部行っておけば新聞社で働けたかもね、という親の無責任な発言にぶちぎれてしまう。責任転嫁甚だしいけど、親への叱責によってひとつ自分の呪いが解けたのなら、まあそれでもいいよね。そして友人の結婚式へ。

 

みんなのポジティブな変化と自分の後退するそれを比較して自らを「終わった人」と心の中で揶揄する。一人東京に残されたあみ子は、もう一つの呪いを破りにいく。今村さんへの突発的な告白である。もちろん上手くいくはずはないのだけど、これでもう東京に未練はないかなあ、という気持ちで実家へ戻る。実家で両親が娘の結婚と仕事について語っていた。田舎の、古臭い価値観で。あみ子は考えた。東京で再スタートするか、田舎で緩やかな坂を一生下るか。すべての幸せが手中からこぼれ落ちた自分にとって、どちらがいいのだろうと。

 

答えは、どっちも地獄。いいですねえ。田舎は拒絶、東京はリセット。どちらも最悪な終わり方ではあったけど、あみ子は無事呪いを打破してゼロからのスタートを決意することができた。

そう、「自分で選んだ地獄へ行く」しかないというのが真の答えです。幸せになる方法がわからない人、チャンスが巡って来ない人・・ではなく、その一歩先の「終わった人」はもう、どの道を選んでも地獄。その中でもがくしかないのだ。というラスト、とても良かったです。

そしてまだ終わってない僕らは、人を見下し人から見下されの無為な人間関係の中になんとか価値を見出すこと、たとえ現実逃避であっても好きなものはずっと好きでいること、そのくらいでしか幸せになれない呪いを薄めることはできない。自分から行動していれば、いつか打破できるかもね。くらいの心意気でこの地獄を生きていくしかないですね。

さいごに

最終話のクラブでのあみ子の涙が印象的だ。もう30歳だから・・と自分の価値を自ら捨てていった当時の愚かさを後悔する。別に30だから遅いとかないじゃん、なんならその調子で何年も停滞した結果が35歳のみじめな私だよ、という涙。自業自得の涙。

「人生一度きり👍」みたいな我らが忌み嫌う人々のクソマインドが結局正しいんじゃん、そうしておけば良かった、って気づく瞬間ありますよね。死ぬほど不快で、心の中でその考えを肯定するしかないと感じたときは精神が分裂しそうになる。でもそれしかない、人生一度きり、やるしかない。嫌だねえ。

 

個人的には地獄の釜の中でずっともがき続けている自覚があるし、自分の不幸は全て自分の不徳の致すところだと思っている。僕も幸せになれるかしら・・。

 

以上です。