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映画『ゴーストワールド』異星人シーモアを解剖しようぜ

11/23(木)から劇場公開です。当時の公開時のことは全く知らないけど、今年に入ってから何となく界隈で"リバイバルの機運"を感じていた作品。夏にはパッケージの再販もされ、思わず購入した。今年はたくさんの復活上映が人気だけど、1番賑わせるのはこの作品で間違いないと思っている。「アメリ」とは2001年も今年も公開時期が被ってて、めっちゃ素敵だよね・・

15歳とは到底思えない擦れ方をしているスカーレット・ヨハンソンへの注目はもちろん、ビビッドなプロダクションデザインやファッション、さらにはテーマの「生きづらさ」も上映前から色々なアーティストに取り沙汰されていて、タイムラインを眺めるだけでとても楽しい。何より「なんとなく生きづらい」というテーマは、今でこそちょっとずつその気持ちに名前が付いたり科学的に解明されたりしている。でも本当はもっと非科学的で感覚的で、名状できない鬱屈さのはずなんだけど、そのモヤモヤを抱えるキャラクターたちと肌感に近い距離を楽しめるのが魅力だ。

上映を待ちきれず再販DVDと重版原作コミックを購入してから望んだはじめての劇場公開、とっても良かった!やはり自分の、そしてみんなのバイブルになると確信しました。本稿では、シネフィル見習いとして、ビッグマックにもナイキにも馴染めないはぐれものとして、「シーモア」の存在について深掘りするよ。イーニドとレベッカはみんなの語り草だからね。

この記事のタイトルにちなむと、シーモアが自称した「異星人」とクソダサバンド「Alien Autopsy」から。シーモアが車中でイーニドに言ったセリフ、原文ではI'm not even in the same universe as those creatures back there. ー つまり「僕はそういう奴らとは違う世界にいるんだ」という意味なのだが、訳出を揃えてくれたクレバーな字幕に感謝している。やっぱり「異星人」と思うと気が楽になるっていう共感覚あるよね。つい先日公開の「正欲」でも全く同じことが言及されていた。地球に留学してるんですよ、我々。

このセリフ大好き

NOBODY LOVES ME...

それはそうと、映画版シーモアは主要キャラのひとりに加わっているが、原作だと登場シーンは多くない。映画版ではイーニドも絡む彼自身の恋模様が後半以降のメインプロットになり、原作にはあまり見られなかった人びとの"恋愛観"を投影する上で素晴らしい改変だと思う。

彼は数々の金言を言い放つが、どれもこれも「諦めた人を演じているけど本当は諦められない人」の生き方そのものを表している。恋愛が全くうまくいかない人生を歩んでいるカルチャー系の男性には刺さりすぎて大変でしょう。同類の友たちの心を揺さぶって共鳴させた、彼を構成する3大要素を並べてみる。


①自分には女性から愛される価値がないと思っている
とにかく自己否定に必死。恋愛がうまくいかなくても、自己否定をすることでそれが弁明になる。「自分にそんな価値がないからうまくいかないんだよね」は最強の自己弁護だ。
②でもチャンスがあるならそれにしがみつきたい
もしかするとどこまでもロマンチストで愛の探究者なのかもしれない。そうでもなければあんな広告出さない。しかし、真の行動原理は単純明快で、「まだ諦めきれていないから」だ。何かチャンスがあるなら「これで終わりにしよう」と、毎回懲りずにそう思っているはず。
③カルチャーが拠り所
自暴自棄になりつつも何だかんだでアクションを続けられるのはなぜか。それもまた単純で、彼には音楽という拠り所があるから。イタズラで出会ったイーニドとは(最終的にうまくはいかなかったが)真の愛を垣間見ることができた。そのきっかけも、彼がカルチャーを愛する男性だったからに他ならない。自分の好きなものを自覚して愛でることができる男性は素敵だ(意訳)と、イーニドが言ってくれたからだ。イーニド、我々が一番出会いたい人じゃないですか?

・・・
といった具合に、我々 非モテ文化系が少し前に「モテキ」で覚えた強烈な共感の系譜は、20年前の「ゴーストワールド」のシーモアというキャラから脈々と続いている。
まあ、いつの時代もいるんでしょうね。むしろ現代ではあらゆるカルチャーにアクセスしやすくなっているので、肩身の狭い思いもしなくて済んでいるのだろうか。趣味に生きるとか独身貴族といった概念が蔓延っていても、当事者たちからするとずっと苦しいんだけど。そうですよね?
・・・
それはさておき、結局ダナとの奇跡的な出会いに乗じてお付き合いしてみるものの、やはり趣味が合わないというか、「ビッグマックとナイキ」に阿るような関係性は築けないのだ。自分の好きなものは自分で決める。それがシーモアの流儀であり、イーニドが認めた彼のクールポイントでもある。散々自分に疎外感を植え付けてきたメインカルチャーに迎合するくらいのチープな恋愛は要らない、と決断できる姿勢こそ、シーモアが我々に見せてくれるひとつの生き方の答えのような気がしてならない。我々はそれに倣うべきなのだろうか。

GO, SEYMOUR, GO!!

とはいっても、相手はイーニドだ。シーモアもまさか自分を真に見出してくれた待望の人が10代の少女だとは夢にも思わなかっただろう。悩みぬいた末イーニドとの生活を受け入れる覚悟を決めたシーモアだったが、イーニドの心中はそう安定するものではなかった。彼女はシーモアを本当に慕っていた気持ちを告げ、町から姿を消す。

シーモアの描写で良かったのは、この一連の恋愛が成就しなかったことだ。これでイーニドもしくはダナと幸せな関係を築きました、だったら幻滅間違いなしだったと思う。

失敗してふさぎ込んでも立ち直り、家族や友人との関係は大事にするし、愛するモノへの情熱を忘れない。束の間の関係だったとしても、イーニドのように自分の生き方を認めてくれる女性がいつかまた現れるかもしれない。その日まで好きな音楽をまた蒐集して過ごそう・・そう思っているはずだ。破滅的なマインドで恋愛に臨み自己肯定感が皆無に等しくなっても愛されたい欲求は抑えられないのだが、「誰にも愛されなくてもいいじゃないか、僕のことをご覧よ」とシーモアに激励されている気がする。そして怒りや無念な気持ちとも向き合って、他人に当たり散らかさない。自暴自棄だったシーモアは最後、真にイーニドから愛されていたことを病院のベッドの上で知り、僕らにそう教えてくれた。
シーモアの理解者であったイーニドは、幽霊のように生きている。僕らが人間関係に積極的になれないのと同じ、またはそれ以上に、そもそも他者と深く交わることができない。それでもイーニドのように僕らを理解してくれる人たちがどこかにいるんだと、シーモアの物語が思わせてくれる。シーモアの物語は、ガールでもティーンでもない僕らに向けられた確かなメッセージだ。

青春からはぐれた男性諸君

この映画は青春ものです。キラキラの10代後半を冷ややかな体温で過ごす少女たちの物語として語られるし、今も絶大な支持を得ているのはやはりイーニドの存在が大きい。「解像度が高い」という言葉ではイーニドを表現できない。進学や仕事のことだけではなく、すぐ隣にいる親友との関係性すらぼやけて先が見えないのだ。イーニドに共感する人たちの視界は、かつても今も、彼女と同じなのだろう。

でもシーモアと、世間からはぐれてしまった僕ら大人の男性はどうだろう。彼もまた「解像度が低い」状態の青春時代を過ごしていたはずだ。少しずつ生き方を心得ていき、視界がクリアになればなるほど自分の眼前に広がる世界には異性からの愛が存在しないことがわかっていく人生。彼のキャラクターデザインが秀逸なのは、「何もない人生の代替案を模索してもがく人」を精緻に描いているからに違いない。この物語で一番解像度が高いのは、シーモアだと思う。

余談 僕らを救う関連作

僕らを救う物語に、ゴーストワールドが加わってくれた。その布陣を少しだけ紹介。
個人的には「モテキ」も似たようなタイプの物語なのだけど、ドラマ版はあまりにも卑屈で、一方映画版はシンデレラストーリーすぎる。それでも「藤本さんみたいなタイプって、ちゃんと需要ありますよ」 とか、「黙って働けバカ!」とか、思わず背筋が伸びるような含蓄に富んでいる。「藤本さんみたいなタイプ」=シーモアだからね。でも藤本って99%がダメ人間だし、シーモアのアナザーストーリーと言う方がしっくりくるかもな。
ビッグバン・セオリー」のラージも紹介しておきたい。
親友たちがみな恋愛に励み結婚を迎える中、彼だけは長続きしないのだ。どうして自分だけ。"I'm unlovable!"と親友の肩を借りて泣くラージの姿には、シットコムながらも涙なしには見られなかった。でも、愛すべき友人たちと、大好きなオタクカルチャーと、誇れる仕事がある。最終シーズンで彼は恋愛よりもそれらを優先した。しかも諦めた様子はなく、ロマンチックな出会いを探し続けると彼は言ったのだ。彼自身の恋愛遍歴には中々の問題があるが、ルーシーという女性との交際はまさしくイーニドとシーモアのそれだ。「いつでも愛するものやひとに囲まれているから、今の恋愛が報われなくても未来を諦めない」を決意したラージの生き方に、一個人として大変救われた。そしてその教科書の一ページにシーモアの生き方も加わってくれた。とても心強い気持ちだ。

このシーン、涙無くしては見られない。

みんな、これからも地球人の営みを真似て、なんとか擬態しながら生きていこうね。